保守・反動思想家に学ぶ本

今となってはものすごい恥ずかしい事だけれど思い切って告白してしまう。


じつは高校生の頃、右翼少年であった。
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大昔のことだから見逃して欲しいものである。携帯やインターネットなんかなーんも無い頃の話なのだ。
コンポが高級電化製品で、ワープロやビデオデッキが何十マンもして、しかもすぐに故障してしまう頃の話。


なんで右翼少年だったかというと、とくに信念があるわけではない。たんに変わり者だったからである。
世の中がAであれば、非Aとして在りたいというだけ。
少年とか青年期にはごくありがちなメンタリティーとも言える。
とにかく人と違うことに、レゾンデートルを見出したい、みたいな幼さであり、理論的なものはあとから来る。


それでも、当然のことだが、じっさいに右翼少年であるときには、そんな隠された幼い動機があるなどとは考えもしないし、指摘されても反発しただろう。
つまり、それが理論的に正しいからこそ右翼なのだ、と考えている。
頭悪かったくせに。(自分はそんなに頭の良くない人間だとは、それくらいは薄々気づいてはいた。)


頭が良くない人が知的でありたいとき、一番便利なのは、いわゆる便覧本である。
こんな感じの本を見かけたりしたことがあると思う。『現代思想を知りたい人への10章 フロイトからソシュールまで』とか『やさしく分かる哲学入門 カントからフーコーまで』とか。
ペラペラした柔らかい表紙で、書名も丸ゴシックなんかだったりして如何にも分かりやすそうなやつ。
右翼少年だった私にとって、その手の簡便本といえば、『保守・反動思想家に学ぶ本』だった。
これは長らく、本棚の一番取りやすいあった。
これは画期的な本で、一流どこの哲学者思想家について纏めた本は星の数ほどあれど、右翼に限った思想家について一冊にまとめた本なんてのは見たことが無かった。
新左翼くずれの評論家さんたちが共著した本で、これは参考になったなあ。


そしてこういう便覧本を、私のような頭の良くない人が手にしてしまうと、そこにコンパクトに纏められた内容をもって、その思想家について知った気になってしまうから始末が悪い。(くれぐれも言うけど、当時の当人はそんなふうには考えていないのだが。)
何が悪いかといって、たいていの場合、原本・原著などに当たろうなどとはしなくなる。
当たろうとしない人、当たることのできない人のための本なので当たり前といってしまえばそれまでなんだけれど。
それはあまり良い事ではないなあ、と思うように、今はなっている。
当の右翼系思想家たちの著作で、その後読んだものなんて数えるほどもないし、実際読んでも、およそ理解できるものでもなく、また魅力的なものでもなかった。


まず何といっても、簡便的に分かってしまうということは、あまり面白いことではない。
たとえ原著がどんなに分かりづらかろうと、原著に直接あたって、ある程度は我慢しつつ、読み進めたほうがいい。
ときには、コンパクトに纏められたものとは、また違う感触をもったりするものなのだ。
そしてどんなに我慢しても先に進めないのであれば、潔く諦めて、別の人の著作でも読めばいい。
学者ではないのだから完読する必要などないではないか。それに一人の思想家についていけなかったとしても、その人にはきっと別の著作もあるだろうし、他にも思想家なんて沢山いるのだ。
右翼系の思想家たちの場合は、彼らの思想的なものが魅力が無さ過ぎたせいか、原著にあたってもあまり発展性はなく、ちょっと矛盾するかもしれないけれど、哲学系の人や文学系の人の場合は、原著のほうが面白かったケースが多い。


結論的にいえば、便覧本には気をつけよう、という事で。


ところで余談的に話を例の『保守・反動思想家に学ぶ本』に戻すと、この本が出たくらいから、いわゆる左翼的なものの退潮が本格的に始まったのではないか、と考えている。
こういう本が本屋にならんで、しかもそこそこ売れたということが何よりそれを証明している。
私はといえば、この本を買ったころを頂点として逆に左翼的な考え方、福祉重視、平和重視のほうに傾いていったのだが、その辺の経緯についてはもしかしたら続きを書くかもしれないし、書かない可能性もある。