『ジャズ批評』2007/3月号

この出版不況というか雑誌不況のなかで、むかし季刊だった雑誌が隔月に変わってるわけだから、ジャズ批評、そこそこ売れているんだろうか?とてもそうは思えないような内容なのだが。
まず寺島靖国のコラムが存在することがイケナイ。イケテナイ。
そもそも寺島靖国という人は、"批評"を否定、つまり頭で音楽を語ることを否定しているわけだから、ジャズ"批評"という名前の雑誌にまったく相応しくないのだ。
というのは揚足的なツッコミに過ぎず、つまりジャズ批評とはいったって批評ばっかり載ってるわけでないことは承知していて、で真面目にいうと、寺島という人はスイングジャーナルあたりにも書いているわけだから、こういうブッキングはもうウンザリなんだ、という事。
ジャズ界って、そんなに批評家、ライターが枯渇しているのか?
いつまでこんな、ジャズというものを、極めて趣味的でオヤジ的で、オヤジの中でもとりわけ偏狭でコダワリの強い人たちがやっていて、ロックやブラックと違って道とか体系が存在するかのごとく「入門」を要求されるようなモノ、というイメージにしてきた古臭い評論家たちを登場させるのか。まったく理解できん。


寺島がこの号で書いていることも、たんに自分がいかにタバコを嫌っているかに過ぎない事を、世間一般に拡大し、いかにタバコが世間では嫌われているか、にしようとしている。外国ではこうなっている、というのは、ステロタイプな国内向けに説得力を持たせようとするやり口だが、そういう古臭い手口を使ってまでして。いかにも偏狭な内容なのだ。
むろん、まったく分かっていない。
そんなに世間的に嫌われているのなら、ここ日本ではなぜこんなにタバコの自販機があちこち存在するのか。好いている人が多いから、こんなにたくさん自販機があり、それぞれ電力消費以上にペイしているんだろう。


また細かくいうと、寺島は鉄道の喫煙所が狭苦しいところになってザマヲミロと言いたいらしいが、あれは、鉄道というユーザーが否応なしに利用せざるをえない場所だから、そういう無粋なことができるという事なのだ。鉄道とか学校とかお役所的な否応のない場所ばかりみていると、「世間でのタバコ」というものが理解できないようだが、たとえば東京ディズニーランドに行ってみると、喫煙所があちこちあることに気付く。分かっているところは分かっているのだ。アミューズメントとしてきちんと商売をシビアに考えている所は。多くのユーザーのフォスピタリティをいかに両立させようとしているか、そこが全然違う。ホテルなんかでもタバコが吸えるところにはきちんとしたソファと空調が容易されている所が多い。建物の外に出したり、狭い場所に押し込めたりする所などあまりない。
また、タバコを強く嫌う気持ちはタバコを吸う人にはけっして分からない、などということも寺島は書くが、たんに寺島が人の気持ちが分からないような偏屈で頑固なヘビースモーカーとの付き合いが多かっただけなんじゃないか、という疑いを持たざるを得ない。おそらくタバコを極度に嫌う人はそういう極端なケースの記憶が強くなるんだろう。
タバコを吸わない人で、タバコをすごく嫌う人は確かに存在する。そういう人にタバコを止めてくださいと言われて素直に止める人と、それで不機嫌になる人とどちらが多いのか。圧倒的に前者だろう。いくらタバコが吸える場所でも、喫煙所と指定されているのでもないかぎり、節度を持つのは当たり前だ。なんてことは、10年20年前ならともかく、今は皆分かっている。
ただし、ソフトに止めてくださいといえばそれで済むものを、いきなり怒ったり、虫けらのように扱ったりすれば不機嫌になるケースもあろう。エチケットエチケット言うが、いきなり怒ったり、虫けらのように扱ったりする事だって、じゅうぶんエチケット違反なのだ。他者にモノを言う作法が出来てない。
タバコを強く嫌う気持ちはタバコを吸う人にはけっして分からない、のならば、同時に、タバコを吸う人の気持ちは、タバコを毛嫌いする人には決して分からない、事も想起すべきなのだ。しかも、タバコを嫌う人がタバコを吸う人をあらかじめ毛嫌いするケースはままあれど、タバコを吸う人がタバコを嫌う人を予め嫌うケースはほとんど無いこと、なども。
喫煙は多くの人が楽しんでることであって、当たり前のように悪いことではないのだ。それを止めてくださいというのだから、真っ当な、初対面の人と人との作法のなかで行われるべきだろう。
そのくらいの事が分からない人の店が流行らないのも無理もないかな、と思う。