私は小林カツ代を支持したい

もしかしたら、知らないという事はこういう事なんだという悪い見本になってしまうのかもしれないが、今の段階で、私は小林カツ代を断然支持したいと考えている。


どういう事かというと、それは昨日NHKで国会のどっかの委員会の中継をやっていて、定食屋でそれを漫然と見ていた事から始まる話なのである。
その店は、チャンネルについてあれこれ言われないように、という意図だと思うけど、NHKしか映さない。
そうじゃなければ、こんなものは普通見ない。
しかも質問者が自民党山東昭子氏だったから尚更である。
この与党議員が政府に質問というのが、昔からどうしてもなじめない。きっとそれは与党にも枠があるからみたいな形式的なものなのだろうが、たいていこれが聞いてるほうが居心地が悪くなるようなくだらない激励みたいなものになっていて、とりわけ時間の無駄という感じが強いのだ。
与党の議員であれば、総務会だか部会だか政務調査会だかで自分の意見を反映する場は充分にあるはずなのだ。そしてそれらの場での議論のほうがたいてい白熱しているのではないか。
だいたい山東昭子氏あたりが質問を行うというのが、与党がいかにこれを重視していないかの証明になっていると言ったら失礼かもしれないが、いわゆる実力者的な人が与党質問などしている事あったかしらん。
他にも本会議場での代表質問も無駄な感じが強いなあ。


昨日も山東昭子氏と伊吹大臣との間でナアナアなやり取りが行われていたわけだが、どうも山東さんは食育ということを重視しているようなのである。新鮮な野菜がどうの、それを給食で出すのはどうのとか、やってはいました。
山東氏といえばいわゆるタレント議員の草分け的存在という理解でしかなく、彼女の活動については多くは知らず、よって、大声で悪し様に言うつもりはない。おそらく食育という事にも科学的で取り入れるべき点も多いのだろう。
しかしそのナアナア感の印象が悪すぎたせいなのか、少し前にネットで見た小林カツ代の言葉の方を支持する気持ちに傾いてたのである。(http://www.gks.co.jp/y_2001/interview/talent/kobayashi.html


カツ代さんの言葉のなかで傾聴すべきなのは、まず感謝をせよ、ということだろう。
食べ物に対して科学的な分析がどうであれ、まずすべきなのは感謝せよ、という事だ。
そしてとうぜん食べ物にたいする感謝は、それをもたらすモノへの感謝に繋がる。それを採る人、運ぶ人、作る人、売る人・・・つまり他者に対する感謝だ。
どんなに貧困でジャンクなメニューであっても、食べれる事に感謝をもち、決して食べ物を無駄にしないような家庭と、常に栄養に気を配りつつ、それでも出されるものをただ食べるだけ、いらない部分はごっそり捨ててしまうような家庭と、どちらからまっとうな人間が育つものか。


これこそ食育という言葉から連想させる行動の原点にあるべきことだと思うのだが、もちろん国がそんなことにまで口を出すのはどうかとも思う。
ただ大人たちが示すしかないのだ。
大人たちがこの食べ物にはこういう成分が含まれているからどうだとか説明する前に、食べれることを感謝しながら自ら食べ尽くすことなのだ。子供はそれを真似るだろう。
感謝しなさいでもなく、トマトや人参は栄養があるから食べなさいでもないのだ。


ところで、もし食べ物の成分こそが重要で人間の体質だけでなく行動がそれほど左右されるのならば、完璧な栄養素を配合したスティックでも作って食べさせたらどうだろうか。
これは真っ当な意味での食育という考え方からすれば対極にあるやり方なのかもしれない。
でもそれで、キレる若者が減るのならいいではないか。間違いなく食事という重要なコミュニケーションの場は失われるだろうから、そんな良いことは無いとは思うけれども。


そうなのだ。キレる若者は食べ物が云々いうとき、念頭にあるのはその成分でしかなかったりする。食育というと、まず成分や栄養バランスなどの科学的な話から入りたがるから、新鮮な野菜がどうのとか国会でやり取りするのだ。
ここで小林カツ代と私が少し違う点がでてくる。
カツ代さんは、昔は栄養失調だったし、添加物だらけだったけどキレる事はなかった、という。
こういう認識は、カツ代さんが違うだろうという食事が悪い派にも共通しているのだろう。昔は良かった、最近はキレる、という。


そんな単純な事だろうか。
世の中の暮らしが、コミュニケーション不足を補えるほど便利になったお陰で、コミュニケーション不足に陥るモノが漸増している、そんな単純な作り話めいた現象があるのだろうか。
実感でしかないが、10年前、20年前、30年前と比べて若者が凶暴になったとは私には全く思えないのだ。
むしろ大人しくなっている。
本当なら、私の方の側が年を重ね分別臭くなり体力も失っているのだから、若者がもし変わらないものだとして、相対的に徐々に粗暴に見えておかしくないはずなのに、むしろ若者は年々大人しくなっているような気がする。


こんな話題で長々よく書いてきたが、食育が重要だとして上記のような実感を踏まえていうなら、食事に関してはまず感謝であり、それさえ踏まえていれば、他にやるべきことは沢山あるのではないか、という事。
食事の成分が幾ばくか人間の行動に影響を与えるとしても、他の要素の影響よりはずっとずっと少ないのではないか、という事。
最低限の生活を営めるような、またほんの少しでもある程度未来が描けるような生活を営めるような、経済的な施策こそが何より優先であって、ジャンクフードも食えないような人たちをどうするか、がどうにもならないかぎり、食育も何もないのだ。