渋谷陽一の自己矛盾?『SIGHT』2008/WINTER

若かりし頃ロッキングオンを定期的にけっこう長く買っていたので、流行りモノの音に関心が薄くなってしまった今でも、『SIGHT』とか目に付くと立ち読みするのだが、先日読んで非常に残念に思う事があった。
それは渋谷陽一の巻頭言である。
民主党自民党のいわゆる大連立について苦言を呈しているのだ。つまり、小沢も福田も国民の気持ちを分かってないよな、という事。更に、このへんは記憶で申し訳ないのだが、大連立を理解できない一般大衆を非難するような、プロフェッショナルな政治言説をも非難していたように記憶している。例えば、”欧州のある国では野党が大連立に加わることによって政権感覚をより身につけその後与党になった。そういう事を知らない日本の大衆はたんに目先の気分で野合批判をしてるだけ。日本人は幼い。”というような言説はダメだという事なのだろう。自分はロックに関わってきたものとしてポピュリズムと非難されようとポピュリズムでいいのだ、とも。
私は非常に非常に残念に思った。それでは何のために『SIGHT』みたいな雑誌を立ち上げたんだ、って話になってしまうではないか。自己矛盾ではないか。
ポピュリズムでいいのなら、希望する読者でも呼んで政治意識の高い(そのくせ政治の現場に無知な)アーティストと語り合うとか、そういった内容の誌面にでもすればよいだろう。毎号何のために政治学者や評論家(しかも割と注目されている)、あるいは現場に詳しい元政治家や現政治家を読んで話をさせているのだ?自らプロフェッショナルな言説を載せているではないか、しかも前面に出して。
いやなんか非難するような事を言ってしまったが、誌面はそれでいいのだ。読者の声なんかよりプロフェッショナルの声を載せていいのだ。当たり前ではないか。読者の声なんてクソも面白くないし。
だったらそれを否定するなよな、という事なのだ。
今の、少しでも一般大衆を小馬鹿にしたような言い方をすれば、すぐに上から目線だの言われてしまうようなバカバカしい風潮に、渋谷陽一の巻頭言は従うようなものになってしまっているのだ。
ロックは大衆音楽であると同時にカウンターカルチャーでもあったはずだ。そんな、プロの存在を否定し素人感覚だのが安易に肯定されてしまうような風潮にもカウンターをかますべきだと私は思う。
思えば靖国参拝が盛り上がったのだって言ってみればポピュリズムだった。ああいうときには例え即効性がなくともプロによるプロらしい愚直な啓蒙を積み重ねるしかないのだ、と私は思うのだが、渋谷陽一はああいう右のポピュリズムにどう応えるのだろう。