スイングジャーナル '07/3月号

スイングジャーナルで何より興醒めなのは、ディスクレヴューされる商品と、その商品の広告のタイミングがバッチリなところ。これだけ広告を入れればレヴューで悪いことなど書けるはずがない。もうスイングジャーナルのレヴューなんて誉めるためにあるようなものだ。
むろんこういう構造は、商業的な音楽雑誌の殆どに言えることでロッキングオンだって例外ではなく、長年の読者は、誉めていても熱の入れ具合がイマイチなものは×かな、などと思いつつ読んだりする。その点スイングジャーナルはレヴュワーの個性がぜんぜん伝わらないし、購買層もどちらかというと初心者も含めたもの。読んでいる人の多くは、誉められているものはなんでも良いものだと勘違いするだろう。
JAZZについては、iTUNEストアとか、大型CD店で試聴できるものは、できるだけ試聴して決めるのが面倒だが一番の方策だ。


そしてこの号でも例によって寺島靖国とかいう嫌煙家が書くスペースを与えられている。
どちらかといえばマイナーなアーティストのレヴューをするにあたって、優れた先達のミュージッシャンの名前を挙げることはフェアでない、とか言ってる。川上さとみとバドパウエル(だったっけか?ようするに偉人ピアニストの誰か)を聴き比べて最近では川上さとみの方が良いと答える人が多いんだと。
この人は、批評というものが分かってないよな。批評というのは半歩以上先を行くからこそ一般人から重んじられるわけであって、一般人と一緒になってどうすんのよ、って事。しかも、意識的に半歩先を行こうとしないだけならまだしも、半歩先にいるのに、わざわざ後退するのも罪深いというか欺瞞だろう。自分がバドパウエルの方がいいと思ったら、大衆の感性がどうであれバドパウエルを推せばいいじゃないか。それを信じるも信じないのも大衆の責任だ。
それにフェアだのどうのこうのもいい加減にしてくれ、という感じだなあ。寺島っていう人は、JAZZの権威主義的な聴き方−あたかもパーカー、パウエルから勉強しないと分からない、と言いたげ名な聴き方−を批判しているとばかり思ってきたんだけど。
絶対的な聴き方はないと言うんだったら、批評だってフェアもクソもないだろう。だいいち、批評をフェアにしてどうしたいのか。結局ある音楽について正当に評価すべきということか。
それならば、批評をフェアにするというのは、音楽にランクやひいては権威を認めるような姿勢に間違いなく繋がるだろう。「フェア」というのは、誰が見ても公平という事だ。何が優れた音楽で何が劣った音楽であるかを、誰が見ても文句がでないように序列化しようというような魂胆から、そういう言葉が生まれるのだろう。
私はロックやポップミュージック系の批評の場で、ある批評がフェアかどうかなんて馬鹿げた議論に出会ったことがない。
JAZZもそうすべきとまでは思わないが、JAZZのそういう頭でっかちな所から自分は逃れていると思い込んでいる寺島のような人が、思いっきりJAZZっぽい事言っているという醜態は恥ずかしいものだと思う。