ユリイカの目次を読んで その2

「二流のライブより一流のCD演奏を」の問題で他の点についてもあげておく。

まず、ライブ演奏がすべてCD化されるわけではないこと。

ジャズの場合、CD化された演奏がそのプレーヤーのベストであるというような幸運な事は少ないんだ、ということである。
なぜスタジオでのかっちりとした演奏だと魅力が一段落ちるんだろう、とか、なぜ他にもっとノリノリの素晴らしい日があったのにこの日を収録するんだろう、とか、いくらでもある。
また録音からミックスダウンにいたる過程で、整えられ落とされるものもある。
現場で聴くよりクリアに聴こえて良い面もとうぜんあるが、ハコ全体の共鳴感とか、不協和やちょっとした歪みも含めて混然とした塊として耳に届く場合の音圧感が、薄れて聴こえたりもする。いずれにしろ、そのまま再現というふうにはなかなか行かないのではないか?
ようするにライブに行くという事は、CDやレコードだけでは出会えない一流の瞬間に出会える可能性を増やすということだ。二流のCDしか出してなくとも、いや、メジャーデビュー出来てなくても、一流な演奏を聴かせてくれるミュージシャンがいる可能性は大いにあるのだ。
その可能性を放棄して、部屋のなかで何度も聴いたCDを聴いたりする行為は、べつに好きでやっていいことだが、人に薦めるものでは決してないし、視野を狭くする行為と言われても仕方ないだろう。


何度も聴いたCDを聴くのではなく、新しいCDを買えば視野を広げるんじゃないの?と言うこともできるが、そのような広がりが結局はどういう事に帰結するのかは、前日参照。
また新しいCDにおける可能性は、複製商品の可能性として多くの人に長期間呈示されている。まず自分が、しかも直ちに向かい合う、というほどのものでもないだろう。
いっぽうライブはどうだろうか? 
いちどここで可能性が失われてしまえばそれまで、といったことすらありえるのがライブなのだ。

漱石・鴎外とJ文学、または志ん生とタレント落語家とのアナロジーにおける問題

また、後藤氏は上記のようなアナロジーを出して、聴く力読む力をつけるためには前者を聴くべき読むべき、とか言っている。
つまりジャズも同じだろうと。一流のCD演奏は漱石志ん生のようなものなんだから、まずそちらを選択しろ、と言っているのだ。
ここでは、まず、なぜ聴く力を一般大衆がつけなくてはならないか、がさっぱり分からない。そんなものが必要か?
必要だとすれば、なんのために必要なのか?
音楽っていうのは、その人の生活に必要なものとしてフィットするものかどうかが全てであって、その人が自分の必要を満たすものだと感ずればそれでいいのだ。ジャズを聴くことに関して、決まった道も決められたやり方もない。
そんな全ての人に同じようにフィットするようなジャズ道みたいなものがあるのならば、ここまでジャズは廃れなかっただろう。
ジャズの入門に書かれているような聴き方が一部の人にしかフィットしなかったからこそ、ジャズは廃れたのだ、ポップミュージックとしては。(あるいは、他によりフィットするものがあったから。)
ジャズ評論家の間だって感じ方には大きな差があるのだ。ある評論家が絶賛するものが別の評論家にとってはゴミ、そんな光景は何度も繰り返されてきた。
だったらそれ以上に一般大衆もいろいろだと考えるべきだろう、普通は。


またアナロジーが不適切。
漱石と鴎外とJ文学では、やってることが違いすぎるだろう。同じ人物や事象についての小説を両者がともに書いているのならまだ分かるが。
後藤氏は、J文学なんていかにもジャズ親爺世代が否定しそうなものを意図的に持ってきて、否定を印象付けようとしている。
落語については、いまのタレント落語家がどの程度のものかは分からないが、新旧で同じ演目をやるという意味ではジャズのアナロジーとして適切だろう。
ただ、今のライブでも、少なくとも大体2000円以上払うようなものならば、昔のミュージシャンのCD演奏と比べ、それほど聴き劣りするとは思えない。そんなに言われるほど差なんてものがあるのか、大いに疑問。
レベルを落とす、とまで後藤氏は表現するが、最初から今のミュージシャンしか聴かないのであればレベルは上がったことがないのだから落ちようが無いし、昔のミュージシャンも並行して聴いているのであれば、いつでもそこに戻れるのだから、劣るものを聴いたところで何もレベルなど落ちようがないだろう。
ところで話戻すが、じっさい、個人の趣味や感性の問題の範囲を超えるような差が、一流CDと二流ライブとの間にあるというならば、どういう音の差として出ているのか是非とも知りたいものだ。


それにまた、今文学の世界では、いかにもJ文学的な(感性とかを売り物にしたもの?)作家しかいないわけではないし、現役の落語家がみなタレントめいているわけでもない。
むろん、そんな事は後藤氏も分かっているのかもしれないが、いかにも今のミュージシャンが二流ばかり、ライブに行っても無駄だよと言わんばかりの言辞が放置されているのは良くないと思う。
何より、今現在同じ世界に生きて、同じ時代の空気を吸い、同じような出来事に接している人の表現に接するということは、それ自体ひとつ意味のあることだと考える。このコミュニケーション意識というのは、また音楽を長持ちさせるものなのだ。


むかしのCDしかずっと聴いてこなかったような人にライブに行けなんて言っても無駄だろうが、ジャズを聴き始めたばかりとか、これから入門しようとか考えているような人は、ジャズの入門書を読んだりするのではなく、まずライブに2、3本行ってみることをお勧めする。(ジャズ喫茶に行く、なんてのはもってのほかだが、今やジャズ喫茶なんてあまり無いだろうからいいか別に。)
むろん念のため言っておけば、別にそれがジャズの王道というわけではない。お勧めするひとつのナイスなやり方であり、ベターであるがベストというわけでもないのだ。

長くなったので結論めいた事書くと・・・

ジャズは聴かれなくなったとはいうが、横浜ジャズプロムナードなどは年を追う毎に盛況になってきている。横浜ジャズプロムナードの来場者数を今HPで見てみたら、なんと去年は13万2000人ですと。過去最高ですと。(ところでこの13万のうちのどれだけが二流でレベルが低いのでしょうかね)
また、他のあちこちでもジャズフェスが見られるようになってきてるのを考え合わせると、ジャズが聴かれなくなっているという言い方はこれ本当なんだろうか、という気もしてくる。
ジャズ喫茶の現状とあわせると、方や過去最高の観客数、方や来客数が減り店自体も少なく・・・、同じジャズを扱っていながらこの差。
これだけでもう、一流のCD演奏か、二流のライブかということに対する答えは出てるような気もする。


楽観的にまではもちろんなれない。いままたジャズが聴かれるようになってきた、とまでは言えないだろう。
フェスは盛況でも普段のライブの入りがグンと上がったような気配もないし。
ただ、フェスという青空のもとでの新しいライブの場の獲得が、今のジャズに対して、いくらかでも期待させるような気配をもたらしたことは確かだろう。それが今後、良い方向に作用しないなどと言うことは誰にも出来まい。 
ぎゃくにほぼ確実にいえることは、ジャズに向かう場が、CDや、古めかしく薄暗い煙の充満したライブハウスや、店主が偉そうにしているジャズ喫茶だけしかなかったら・・・。そこにはまったく何も、期待感すら無く、ジャズは衰弱したまま、あるいはゆるやかに衰退を進化させていただろうという事である。


※追記
文中ジャズ喫茶がどんどん衰退してるみたいな事書きましたけど、とくになんかの資料に基づいてるわけではありません。
なのに、イメージだけで語りジャズ喫茶を貶めてようとしている、と言われれば、まあそうなんですが、少なくとも私語を禁止するような古臭いタイプの店が、(横浜のフェスのように倍化とまではいかなくとも)目に見える形で来客数や店数を増やしているなんて事は全く無いでしょう。それだけでもう充分です。