ユリイカの目次を読んで

サブカルチャー批評で有名なユリイカの今月号の特集はジャズについて。
ユリイカはときどき読んでみたい特集やるけれども、如何せん値段が高いよね。
ときにファンにとっては的外れな批評が散見されたりして、特集名だけで買うとがっかりすることもあるので、面倒でも図書館で借りてみて面白かったら古本で手に入れるようにしようかな。


ジャズについてと書いたが、よく調べてみると特集のタイトルは、この号で山下洋輔奥泉光と対談しているマイク・モラスキー氏の著作のタイトルと一緒だった。
つまり、ジャズ特集というよりは戦後思想とサブカルチャーみたいな事なのかしら。


で、マイク・モラスキー氏の著作について調べてたのだが、そのなかでは、毎日新聞の夕刊の記事が面白かった。
この記事では、ジャズ喫茶に話題を絞っているんだけれど、マイク・モラスキー氏はジャズ喫茶には否定的らしい。
そりゃそうだろ、あの時代ならまだしも、いまどきジャズ喫茶なんてものを、くつろぎの場でありながら私語禁止とかいう馬鹿げたことをやってるような所を肯定するなんて人はいないだろ、と思ったら反論が載ってる。
公正中立に配慮したいかにも新聞らしいふるまいだな、とは思いつつ反論を読んでたらちょっと頭にきたので、日記のネタにしてみました。


反論している人はジャズ喫茶の経営者の後藤雅洋さんていう人。(単著もある人らしいんで名前を出してもいいと思う。)
モラスキーさんは、簡単にいえば、CDの一流演奏家しか聴かずライブに足を運ばないような姿勢は視野を狭くするという立場。
それにたいして後藤さんは、2流の生演奏を聴くくらいならば1流の演奏家のCDを聴くほうが良い、などと言ってます。
余計なお世話ですね。


どうして1流の演奏を知っていると豪語している人は、2流の演奏を聴いて2流のリスナーが喜ぶような状況を嫌がるんだろう?
"キミらがそんな程度の演奏を聴いて喜んでいるのはマチガイだ"と言わんばかり。
聴く音楽の選択に関してマチガイもクソもないだろ、というのが通常の反応だと思うんだけれども、侮るなかれ。
「間違ってる」とか「正しい聴き方は」みたいな言い方を、じっさいに聞いたこともあれば、目にすることもあるんですねえ、これが。
そしてこういう現象は、とくにジャズに顕著で、ロックやヒップホップの世界ではあまり見られない。
これはどういう事か。


なぜロックやヒップホップには、個々のリスナーが個々のプレイヤーに対峙するだけでヒエラルキーめいたものや教養主義めいたものがないのか。たとえば、これを聴かなければダメだみたいな事があまり言われず、言われてもシカトされるだけなのか。
その答えは、ロックやヒップホップというものの成り立ちを考えると、自然と、当たり前のものとして出てくる。
ロックやヒップホップは、メディアを中心とした音楽なのだ。CDなどの複製メディアによって広く大衆の間に商品として流通することによって成り立っているのが、ロックやヒップホップなどのポップミュージックなのだ。
大衆が自らの嗜好にしたがって商品を気軽に選択できるというのが、ポップミュージックのポップの所以なのだから、ヒエラルキーなどありようが無い。そこには、気軽な嗜好性しかない。


つまりはロックやヒップホップにとっての主力はCDであって、やや極端にいえば、生演奏の場というものはプロモーションに過ぎないとさえ言える。
ジャズはどうか。
ジャズの魅力はアドリブであるとよく言われるように、ジャズにとっての主力はやはり生演奏なのだ。
CDなどに記録され複製されたアドリブが、何度も繰り返されることにより一つのメロディーとして好まれることもあるだろう。
だが、アドリブというのは繰り返せないからアドリブなのだ。繰り返せるアドリブはすでにメロディーでありアドリブではない。


一期一会であり、2度と繰り返せないものに出会うという貴重な圧倒的な体験こそが、ジャズファンをジャズに留まらせ、ジャズを今まで生き長らえてこさせたのではないか、と思う。
一度もライブに接したこともなく、レコードやCDだけをずっと聴いてきたなんてジャズファンが、いったいどれほどいるのか、という話である。いないだろう、そんな人は。
いわんや、1960年代半ばからジャズはずっと売上で負けてきたのだ。多くの人が、気軽に口ずさめたり気楽に腰を揺らせるモノを選んで、ジャズを選んで来なかったのだ。
いかにCDレコードだけの魅力では、ポップミュージックに敵わないものであったか、ということ。
そのような状況で、隣で青く見える芝のほうに行かない人がいるとしたら、それを支えていたのは、圧倒的なライブ体験なのではないか。


もちろん中には最初から隣の芝が青く見えない人もいるだろう。CDだけで満足してきた人もいるだろう、そりゃ。
しかし恐らくそのような人たちは少数派であり、世がそのような人達だけであり、ライブ体験が軽んじられるような状況であったら、ジャズはもっと今より滅びの様相を呈していただろう、ということなのだ。
スイングジャーナルも、ジャズ批評もジャズライフもアドリブも世に無く、ラジオでジャズ専門の番組などもなかっただろう。


長くなったので続く