ロッキングオンの事、その4

ロッキングオンを買わなくなって数年経つのだが、たまに見かけると、今年のベスト10みたいな企画をやっていたりする。
ロッキングオン社が出している他の雑誌でも(BUZZっていったっけ?今もあるのか?)、何とか100選、みたいなものをよく見かけて、そういうのは、バイヤーズガイドとして確かに役に立つ。
ただそれは、バイヤーズガイドというだけでなく、どうしても、コレクターズガイドみたいなものとして働く面もあるように思う。
1冊まるまるコルトレーンについての本を持っているが、当然コルトレーンの全ての公式盤を網羅したディスコグラフィーのページはあるのだが、それ以外に、「コレクターズアイテム」のページもあったりする。ローリングストーンズの本でもそうだった。


たしかに一人の人に入れ込んでしまえば、全てを集めたくはなるだろうから、コレクターでもいい。
ただ、音楽に関しては、そのような購入の仕方には、ちょっと抵抗もある。
ブリキのおもちゃを集めてるような人のブリキのおもちゃへのスタンスと、音楽に対するスタンスを一緒にされたくないのだ。
たとえば、CDを100枚以上持っていれば、履歴書などで趣味の欄に「音楽鑑賞」と書いてかまわないと思われるが、そういう時にはいつも躊躇してしまい、結局べつの事を書いてしまったりする。(散歩とかね)
他の人が趣味としてやってることと、音楽を聴くということを、同様の行為とは捉えたくないのだ。


今年のベストとか、べつにオールタイムベストでもいいんだけれど、そういった企画には、どうしても趣味という臭いを感じてしまう。
とくに洋楽とか、あらかじめ限定されたなかでベストを決めたりすると、その世界の中だけの事になってしまう。
洋楽ロックしか聴かない人ならいいんだけれど、洋楽の編集者だって、例えばある年にいちばんターンテーブルに載せたのが椎名林檎だったという事もあるだろう、でも洋楽ベストの中には入れるわけにはいかない。


批評というのは、批評家のパーソナリティーとは切っても切離せないと思われる。
それならば、その人が日頃どのようなリスニングをしているかどうかという事は、やはり知っておきたいだろう。
編集者や批評家であるまえに、彼らも音楽の前にはいちリスナーとして対峙するわけで、そこから出てくる言葉こそが、やはりいちリスナーとして対峙しようとする読者に届く言葉足りえるだろう。
匿名的なベスト100とかそういうものよりも、それぞれの批評家と、それぞれの音楽との関わりや拘りこそが、いちばん参考になるのではないか?


などとあーだこーだ考えて、昔はあえて方針として今年のベストみたいな企画を拒否していたロッキングオンを、好ましいと思っていた。
今は、仕方がないんだろう。
前に、ロッキングオンも部数が減ってるのではみたいな事を書いたかもしれないが、あのROがこのような企画をやってると言う事がその証明になってるのではないか。
きっとこのような企画は、部数をいくらか押し上げたりするんだろう。


ところでさっき、洋楽ロックしか聴かない人ならいいんだけれど、と書いたが、いまどき洋楽しか聴かないような人は、たんなる趣味人だろう、と思う。そんな人いるのかどうか分からないが、履歴書に音楽鑑賞と書くのにも何の抵抗もなかろうて。
なぜなら、洋楽だってもう新しさは失われたのだ。昔は厳然としてあった質の差はなくなった。
残念な意味で、洋楽に邦楽は追いついてしまった。こういう状況で、洋楽のみを選ぶとすれば、肝心の音以外になんらかの判断軸が存在するわけで、その判断軸存在が趣味たらしめてる、と言える。


これはブラックミュージックとかジャズでも同じ。
それらの要素はポピュラーミュージックが貪欲に取り入れてしまってるのだから、いま、ジャズやブラックしか聴かないとしたら、なんか趣味的な要素がある筈なのだ。
まるで、ヨーデルガムランしか聴かないみたいなもんだ。いやそれが悪いということではないのだけれど。


ただ、ブラックとかジャズなんかの世界には昔から、それしか聞かないマニア的な人は多かったんだけれども、ああいうマニアのあり方が好きではなかった。というより、嫌だった。
日本という風土においてジャズやブラックが少数派であることが、よりマニア的に、つまりその対象をより優れていると彼らに思い込ませているさせている面が多いんじゃないか、と感じるときがある。
例えば上原ひろみのように売れてしまうと、マニアは聴かなくなったりするからね。
結局、音そのもの以外の判断材料が多いのだ。
そういえば昔ブラック系の評論家で、ちょっとロックに近寄ったものにたいしてロッキッシュとかバカにした書き方をする奴がいて、怒りを覚えたことがある。(ブラックミュージックレビューだっけか? まだあるのか?)