『民主と愛国』追記

『民主と愛国』には、まとめ章みたいなものがあって、そこで、佐伯啓思とか、橋爪大三郎加藤典洋みたいな、右翼な人たちが喜ぶような事を優しく言ってくれるためにここ数年人気のある、学者だか評論家だか文学者だか分からないような人達をやんわりとDISっております。
個人的には、加藤は別として、佐伯とか橋本は、ピンと来ないというか、彼らの本は正直退屈なものだっただけに、DISられていると、まあ嬉しくはある。
なんか社会学系統の人たちって、よほど芸がないとダメだね。
これって、たんに世の中の説明してるだけじゃん、みたいな。
いや説明だけでもいいんだけど、刺激がなさすぎ。
思考の転換を促すくらいの、現実の新たな構成というか構造というか、組み立てなおしというか、そういうモノを見せてくれないと。
むかし流行った、広瀬隆の危険な話とかあそこまでは求めないけれども。


それにしても、加藤典洋は評判よくないなあ。
まあ言及されるだけでもましなのかもしれないけれども、あちこちでケナされてます。
ここ数年の評判の悪さという意味では、かなりの上位なんじゃないか? 私の印象では余裕でトップ。
吉本系の人らしく、ちょっと厳密さに欠けた文学的修辞にみちた言い方が、柄谷・浅田あたりにほとんどバカ扱いされるのは致し方ないとして、高橋哲哉あたりにもしつこく絡まれている。


一見したところ右翼でも左翼でもなさそうに見えるところが悪いんだよね。
加藤の場合、言ってることはほとんど江藤淳、つまり右翼じゃん!と思えるけれど、新しい教科書がどうのとか右翼的な活動もしていなければ、交流すら無さそうで、一見ニュートラルポジションだからややこしい。
大学の生協で『諸君』とか中川八洋の本を買うのはためらわれても、加藤なら問題ないわけだ。
こうなると、スルーすれば良いという存在ではなくなってしまう。


この本では、加藤が自分の言論に都合の良いふうに戦後を勝手に総括しているところが、事実と全然異なっていると言われている。
で、加藤の『敗戦後論』というのは、この前提があってこそ、その後の(どうでも良い)文学的修辞にみちたわれわれ日本人の指針が意味をもつわけで、前提がまったく違っていれば、その後の検討もいらないという事。
また注のなかでは、加藤の文章に見られる思想的弱さが問題にされていた。
この視点は、なかなか鋭いというか、あまり見たことがなかった。
たとえば高橋哲哉の加藤への批判は、しごく真っ当な思想内容への批判であったが、文体から加藤の問題をあぶり出し批判するというのは、一段メタレベルに立つものだが、こういう批判もあっていい。なかなか面白い。