ロッキングオンの事、その3

ポップミュージックのスタイルが出尽くしたんではないか、と言うことについてはこの間、チラっと触れた。
CD売上の低迷など、音楽業界が衰退しているいちばん大きな原因は、じつは、これなのではないか、と思っている。
あまりそういう議論は聞いたことはないのだが、むろん、私自身、いろんなメディアをチェックするよう人間ではないから見逃しているかもしれない。
ただ、音楽雑誌などでそういう後ろ向きな事はなかなか言いにくいだろう、とは思う。


ヒットチャートを聴けばそれはすぐに分かる事で、今は白人のフォークロック的なメロディ重視のものと、ラップで殆どが占められている。
ラップについては、オーソドックスなR&Bをバックトラックに使ったものから始まって、JAZZっぽいアレンジとか、意外なベタな白人ポップを使ったりとか、色々あるが、基本的はやっぱ喋り。オンタイムにリズムに乗せて勢い良くやったり、ボソボソってやってみたり、意図的にリズムを外してみたりとこれも色々あったが、アレンジの幅は狭い。喋りの内容やラッパーのキャラクターに頼った音楽だろう。
内容やキャラクターに頼ったという意味では、いまの白人ロックも大差ない。


私が一番聴いていたR&Bなんかは、90年代半ばから2000年頃にヒップホップ的なものを取り入れ、かなり元気で、面白かったのだが、チャートで見かけることも少なくなった。


今思えば、オアシス、スウエードの頃が一つのポイントだった気もする。
あの頃から、UK系の白人を主に、スタイルの出尽くし感があからさまに見られるようになってきた。
新しさの無さ感、と言ってもいい。
それまでだって、過去に流行ったものの焼き直し的なものは存在したかもしれないが、そんなものを出す場合でもミュージッシャンの側には何らかの新しさへの気配り、意識みたいなものがあったように思う。
オアシスはそういう芸術家めいた賢しらを嫌ったんじゃないか?
”たいして新しいものでもないくせに、どうせ過去の焼き直しみたいなもんのくせに、新しいんだ、これが芸術なんだみたいなフリするなよ。隠すなよ、ほんとうの所を”ってな感じで。
そして”俺らは隠さないぞ、どうだこの俺たちの歌、新しいものなんか何一つ無いぞ!”と。


ポップミュージックが新しさを差異として、それを利潤の源泉とすることで成り立ってきた商品だとすれば、それを葬ったのはオアシスだ、といっても良い。
あるいはオアシスにそこまでの力を認めないにしても、彼らがその端緒となった、とは言えるのではないか。


そんなオアシスにあからさまに不快感を抱いたのは渋谷陽一である。
それに対して、オアシスはこれだけ支持されているんだからポップミュージックとして全く正しいだろう、これを分からない人が音楽雑誌なんかどうやってやるのよ?とたてついたのは増井修
対談なんかでは、オヤジには・・・云々面白おかしく語られてはいた記憶があるが、結構この対立は深いものだったんではないだろうか?


増井の言ってることの方に分はある。
ただ、それは、ポップミュージックの重要な要素を否定するものまでをもポップミュージックとして積極的に認めてしまうという、論理的な階層の混同を、十分に認識した言い方なのか、という疑問点は残るのだが…。
それでも、オアシスみたいなものを認めていなくても、どのみち、時間が音楽のスタイルの出尽くしを促しているのだから、いつかは他のミュージッシャンがオアシスの代わりとなって出て来るだろうし、それら全てに背を向けることは雑誌として不可能に違いない。


しかし、増井修のほうが正しいとは思いつつ、気持ちとしては渋谷陽一の気持ちのほうが分かる。
オアシスやコールドプレイなど少しも聴く気が起きないのだ。
こんなものを聴くのだったら、ストーンズでもスプリングスティーンでもいい、それらをターンテーブルに再々度(何十回目だろうがなんだろうが)乗せる事を私は選ぶ。