村上春樹への躓き

とくに書くこともないので、過去の事など。


村上春樹といえば何といっても『ノルウェイの森』ということになる。
これはもう本当に大ベストセラーだった。
装丁が目立ったせいかどうか知らないが、実際に持って歩いてる人を目撃したことも何度もあり、そんなベストセラーは他にあまり知らない。
とにかく誰も彼もが話題にしているような状態だった。
関係ないが、浅田彰の『構造と力』もやたら流行ったことがあって、じっさいに『構造と力』を持ち歩いている人を見かけたときは吃驚した。電車の中でその人は、『構造と力』の表紙を人に見せるようにして落ち着きなく開いたり閉じたりしては、周りを気にしていた。


みんなが話題にするのであれば、一度目を通してみようとは思うものの、当の『ノルウェイの森』を手にはしない。
そして古本屋かなんかで、同じ作者の他の作品を目にし、それが安いということになると、まあ買ってみようか、と。
このへんの流れは、ブルジョア階級でない私ならではなのだけれど、そんなふうにして最初に買った村上春樹の本が、中公文庫の『中国行きのスロウボート』。
ほとんど必ず文庫化される春樹さんですから、安い文庫を買うのは当たり前で、彼のハードカバーなど手にした覚えはない。


『中国行きのスロウボート』は、それなりに面白く読めたが、当時日本の作家の純文学作品などほとんど読まず、チャンドラーなどアメリカ方面の翻訳ものばかり読んでいたので、とくに新しいとも特異だとも感じなかった。
今思うと、いわゆる日本的な伝統と切離された感じがあって、鈴木英人わたせせいぞうなんかが受け入れられるのと同じような感じで受容されたような気もする。
冷静に考えると、びっくりするほど新鮮だったのではないか?


その後読むものはどれも面白く、ピンボールや羊男などの講談社文庫のものも抵抗なく読んだ(ただし古本で)。
その中で『ノルウェイの森』だけは、虚構がなくどちらかというとリアリズム系で、少し他と毛色が違うふうに感じたものの、これもまあまあ面白かった。あるとき暇にまかせて、2回目を読んでしまったくらいだ。


そのとき読んだ村上作品で、具体的に何が残ったかというと、現実受容の処方箋みたいなものを手に入れたような気がしたことを覚えている。
私は、なにかにぶち当たると、”起ってしまった事はもう元に戻らないから受け入れるしかないし、起きてない事は起らない可能性もあるんだから、起ってから考えればよい”と考えるようにしていた。
”やれやれ”で済ましていく事ができると思っていた。


他に村上春樹で貢献したものといえば、アーヴィングだった。
なんといっても『熊を放つ』が衝撃的に面白く、その後すぐに他の人が約したアーヴィング作品を求めた。
むさぼるように読んだ。『ホテル・ニューハンプシャー』『ガープの世界』・・・ただし『サイダーハウス・ルール』は高いハードカバーでしか出ていなくて、かなり経ってから読み、そのときは、アーヴィング熱は冷めていた。
レイモンド・カーヴァーは面白いが、ピンとは来なかったような覚えがある。


彼の作品で躓いたのは、『世界の終わりとハード〜』である。
こんな退屈を感じたのは初めてだった。読者をグリップ、はどこへいってしまったんだ、という感じだった。
(読者をグリップというのは、たしか『熊を放つ』で村上春樹が書いていたはずの言葉。)
Wikipediaでチェックしたら、これが発表されたのは、『ノルウェイ』の前らしい。
ノルウェイ』と読む順序が逆になったのは、文庫化されるのを待っていたのではないか?
『世界の終わり〜』は確か箱表紙みたいなのもついていて、いかにもハードカバらしい装丁で、きっと高くて買わなかったのだ。