『民主と愛国』についてメモ3

まだ読んでます。遅いです。
時代が今に近づくにつれ、記述のところどころに引っ掛かりを感じるようになってきた、ということもあると思う。


この本は吉本隆明についての評価は低い、という前知識を持ちつつ、吉本隆明の章を読んだ。
だから、意外に、そんなに悪く書いていないじゃないの?というふうに思った。いやむしろ好意的な部分も多いなあ、と。


がしかし、吉本の論について時代を追いながら、言う事がコロっと変わってる旨を丁寧に指摘されていて、この本のこの冷静さはいいなあ。
あからさまな吉本信者というのがほとんど見られなくなってしまったから、そんな人はほとんど居ないと思うんだけれど、吉本隆明をこれから読もうという人は、本書の吉本の章だけでも読んでおくといいかもしれない。


私が他に吉本について思うことは、ああ結局この人は、反「サヨク」だったんだなあ、ということ。
たしかに新左翼にとっては吉本は教祖さまであったし、吉本も徹底闘争とかいってデモに参加してたりしたから、世間的には左翼っぽい存在なのかもしれないけれど、でも新左翼が活発だったころのあの運動というのは、左翼的な革命闘争というよりも、たんなる反体制という側面のほうが大きかったと思えるし。
新左翼の連中が、三島由紀夫まで含めたかたちで支持を集めていたっていうのも、たぶんそれを示している。それに、当時の活動家で後に右派に転じた人もよく見かけたりもする。
そして、あからさまな右翼であることができないし、そういう所まではいかないけれども、現実の生活と折り合いをつけていかねばならないような人の精神的な拠り所として、ずっと機能し続けたんだなあ、ということ。
今でも、反動的な思考をする人間で、吉本は左翼と思われてるかもしれないけれども彼の事はなぜか好きなの、みたいな人がたまにいたりするんですよね。


次に、詩人のくせに、論争などで相手を侮蔑する言葉が汚いなあ、ということ。
そして容易に一般化されてしまうような単純で薄っぺらな罵倒語が多い。「チンピラ学者」とか「耄碌爺」とか。
いや、昔の吉本の話で、若気の至りってもんも、時代的なものもあるのかもしれないけれど、このへんは、まったく共感もてない。
もてないどころか、背筋が寒くなる。なんともイヤな感じがする。
こういう言葉に励まされて、当時の若者が老学者や、大学職員をリンチしていたことを思うとね。
勝手に影響うけたほうが悪いといってしまってはそれまで。でも、安穏な老生活してる吉本もこのツケをいつか払ってくれないか、という気持ちを捨てきれない。
こういう言葉を散弾銃のように一方的に浴びせられ、地獄に落ちたかのような気分になったものだって、きっと数多くいた筈だ。


『民主と愛国』のなかには、丸山眞男についても多く引用されているんだけれども、吉本がひとり相撲的に敵視していたらしい丸山の書く(言う)文章のほうが、今から見ると圧倒的にコトバとして勝っている気がする。
シンプルで明快。無駄な部分が全く無い。居合の達人のようだ。
すぐれた思想というのは、詩としてみても優れているというふうな事をことを、昔きいた事があるんだけれど(たしか三島由紀夫)、だとすると優れているのは丸山の方だろう。
「君達を憎んだりはしない。ただ軽蔑するだけだ」っていうのも、もしそのままそれが丸山が口にした言葉だとするなら、かなり格好よいです。
でも丸山と尊敬しあっていたらしい、竹内好の文章には詩的なものはほとんど感じない。


話がそれたけれど、吉本についてもうひとつ。
それは、彼のサヨクっぽいところについて。
「言語にとって美とはなにか」という著作があるから、言語にたいして敏感なのかもしれないけれども、こと理論という意味では、政治に理論を従わせている、という面が強い。
為にする批判、というか。
自民党に対する社会党のように、サヨクに対して吉本は振舞っているように見える。


ともあれ、ここ数年、吉本が嫌ってきた戦後的なものを再評価したいと思ってる私は、『民主と愛国』読んで、吉本の書くものは批判的な検討という以外、しばらく読むこともないだろうなあ、と再確認した。
けっして、今吉本の人気がほとんど無いに等しいからではありません。