スイングジャーナルを図書館で借りてきた

ちょっと保守的で編集内容に進歩や変化があまりなく、権威主義的で(点数付けランクつけが好き)、商業主義的な(そのくせたいていの作品が良いランクになっちゃってる)魅力に乏しい雑誌、スイングジャーナルをたまに図書館で借りる。
魅力には乏しいけれども情報量はあるから、最近はどんな名前がJAZZ界を騒がしてるのかな、と、ディスクレビューをちらちら眺めるたりする。たいてい、他の記事などほとんど読まない。まあ、そんなんだから買わないわけだが。


その雑誌の後ろのほうの白黒ページに寺島靖国とかいう人がエッセイをかいているのだが、まだ書いてたんだ、たまにはと読んでみれば、やはり後悔。このページは以前にもヤな気分にさせられた事が多々あった。なんかあまりにも非寛容なのだ。
調べてみるとけっこう著作の多い人で、それなりに支持されているみたいだけれど、いったいどこが面白いのやら。いつだって、とりあえず言いたいことをグダグダと書いてみました、みたいなものしか感じられない。
このようなスタイルであれだけ悪口が書けるというのは、いつも頭の中は敵意で一杯なのだろうか、と考えたくなる。JAZZなんかいくら聴いたところで、結局人の心を和ますことはできないんだろうなあ、とか。荒んだ人はいつまでもそのままなんだね、とか。
おそらくそんな事はないんだろう。これだけ著作のある人なのだから世の中とそれだけ多方面に関わってるわけで、普通かそれ以上の人格者なのだろう、と思う。本人は毒舌という自分の芸風に意識的で、グダグダのように見えて、巧みに冷静に悪口を書いているのではないか。
ただ、どちらにしたって、正直後味の悪さは残る。


私が借りた号では、ある本の悪口をある雑誌に書きましたと、さらに悪口を書いている。よほど気に入らなかったのだろう。具体的な例証もなく、ただ悪口を列記するだけ。こんな醜いものでも芸なら許されるのか。


寺島氏は後藤雅洋氏に代表される、JAZZはこれを聴かなければいけない、という聴き方には否定的らしく、それはそれで良い、と思う。JAZZは人それぞれの聴き方がある。当たり前である。
だが、そう言う寺島氏がこれほどまでに不寛容なのは解せない。


私から言わせれば、寺島氏だって後藤氏と一緒なのだ。前衛とか教条主義の代わりに感性とか自分を対置しただけ。「こういうふうに聴きなさい」という姿勢は全く変わらないように見える。「前衛など聴くべきではない」とか「マイルスから入るべきではない」というのが、メタレベルに立った聴き方の一元化批判ではなくて、たんにアナザーワンを示したに過ぎないとしか思えないのだ。もっと悪く言えば、たんにメインストリームな聴き方へのアンチに過ぎないのではないか。
そうして、JAZZというものをとっつき難いもの、マニアックなもの、と思わせるのに、貢献してきたのだ。
寺島氏の著作に「聴け!」なんて言葉を含む題名の本が2、3あるというのが、その事を良く示している。
それにしても、部外者がこんな本(の背表紙)をみれば、JAZZというのはなんか恐ろしげやなあ、と感じるに違いない。何しろいきなり命令されるんだからね、聴け!と。
音楽にはいろんなジャンルがあるが、一般読者向けの書籍でこのような言葉が踊るのは、JAZZだけなんじゃないだろうか。(いやストーンズみたいなバンドの信者なら、ストーンズを聴け!とか言うかもしれないけど、拒否されたからといってあいつは駄目だとは思わないだろうなあ)


ところで、今回寺島氏が悪口を書いた本は、JAZZの他の聴き方、素人的な聴き方を排除するようなものだったのだろうか。
寺島氏がよほど悪口を言うのだから逆に買ってみたくなったので、こんど買って確認してみようと思う。
後藤雅洋氏ほど排他的な事は言ってないんじゃないかとは思うが、まあ、少なくとも、形容詞ばかりでそのくせ断定的な、どうでも良い他人の感想など長々読まされる心配だけは無さそうだ。