『民主と愛国』についてメモ4

『民主と愛国』では、江藤淳について一章分割り当てられているのだが、江藤ってそんなに影響力あったっけ、と考えてみると、彼が論壇の中心に居た頃はそうでもなかったのかもしれないけれども、その後の日本の舵取りは、彼が描いたように普通の国に向けてしっかりと進んでいたりする。
つまり例えば、イラク派兵や国連加盟問題、改憲論議などを見ると、という事だが、ただし、国民の内実については、江藤が描いていたようなものへと成長したのかという所は、なんとも言いがたい。


なにより江藤は自殺してしまっている。
自殺の原因はパーソナルな部分がほとんどを占めていたのかもしれないが、公的な部分、つまり日本の今後への希望のあるなしは、全く作用していなかったのかどうか。
自分が論壇で戦ってきて、これではもう希望など余り持てないという気分が江藤のなかに全くなかったと言えるのかどうか。


ときどき日本の変化なんて、外見上にすぎないと言ってみたくなったりするのである。
朝日ジャーナルも消え、SAPIOみたいなものが恥ずかしげもなく書店の棚に置かれているように、言論は大きく右傾化したが、結局アタマを取り替えた感が強いんじゃないか。
『民主と愛国』では、戦後「鬼畜米英」から「民主主義」へコロリと変わってしまう事への違和(を主張する思想家へ)の言及が多いが、全く同じような意味で、「自由」「平和」「平等」というのが「日本(というか反中・嫌韓)」「反左翼」にコロリと変わっただけなんじゃないか、と思っている。
実証的なことはいちいち挙げたりはしないけど、今、ネットなどで積極的に右翼な人たちが、40年前に生きてたら国会前で「岸退陣!」とかしてたんだろうなあ、という事。


いま述べたのは印象に過ぎないと言われれば、とくに反論する気持ちもない。
むろん、右翼的な言説に対しては、その言説の中身にそって批判がなされるべきだろう。
右翼言説の世代的な広がりの無さから、例えば「あんなのはどうせ上の世代へのルサンチマンの表出さ、いつの世にも良くあるやつね」みたいな片付け方をしてしまっては、身も蓋もないとも思う。メタレベルに立って、さも分かったように説明したところで、あまり役に立つとは思えない。
ただ、メタレベルでの認識も踏まえておくことが必要とは言わないまでも、全く悪いことでもないだろう。
というのが、この『民主と愛国』を読んでの感想の一つでもある。
とにかく、時宜に即した時代に内在的な言論というのが、後において、後といってもそれほど経たないあいだに、いかにあっさり省みられなくなることか。
しかも言った当人においてさえ、という例が、この本では枚挙にいとまがない状態なのだ。


話を戻すが、アタマを、意匠を「民主」から「愛国」へコロっと変えただけで、肉体は変わらない今の言論、世論を、江藤が好意的に感じるとはあまり思えないのである。
戦後、「天皇、日本」から「民主」へとコロっと変わった事に対して批判的であるならば、さいきんの右傾化にも賛同できないものがある筈だ。


ところで、意外なのかどうか、江藤の文章は説得力がけっこうある。引用部分だけ読んでも、なるほど、とか思わせる。
これは、吉本隆明には、なかった事だ。
同じ保守系でも小林秀雄のような言語明瞭意味不明瞭な分かりずらさもなく、同じ時代に生きていたら耳を傾けていたかも、と思ってしまうくらいのものである。
ただ彼の場合も、学問的な意味での一貫性の欠如は、容赦なく指摘される。
吉本や江藤と鶴見との大きな違いは、けっきょく鶴見は学者で、他は文学者であったという事なのだろう。
吉本でいえば「理想の大衆像(ノンポリ)に依拠」という意味で、江藤でいえば「自立」という意味で、それぞれ文学者としての一貫性はあったという事。
ときには「反米」こそが自立への道であり、ときには「親米・反ソ中」であることが自立への道であり、といった具合に。


ところで、この本には江藤の若いころの写真があって、いかにもナイーブそうな弱々しさは昔からなんだなあ、と(じつは江藤の顔はあまり好きではない)。
言ってることはけっこう勇ましいんだけれどもね。
このギャップって何なんだろうと考えていたら、けっこう前にロッキングオンで昔のミックジャガーの学生時代の写真をみて、ちょっと衝撃を受けたのを思い出した。