『民主と愛国』についてメモ

ながら読み(音楽や映画を流しながら)しているせいか、遅々としている『民主と愛国』の読書スピードなんだが、戦後の言論人のうち特に、社会民主主義的な立場にいたひとって、忘れ去られがちなのを感じる。


社会民主主義的な立場というのは、今現在のの社民党の言論より、ほんの少し自由主義寄りで、絶対に共産党とは手を結ばない(というか共産党がむしろ自民党よりも社民主義を嫌うからなんだろうけど)、そういう立場の事ですね。
彼らはまた、マルクスを認めつつもマルクス主義者ではない、といっても遠からずで、活動の党派性にも乏しい。
あるいは党派的でないことすらも、彼らの思想の重要な要素だったのかもしれないが、ともあれ、それもまた社会民主主義者たちが忘れ去られるのに一役立ってしまっているのかもしれない。


小熊英二は、鶴見俊輔を再評価しようとしている(らしい)のだが、『民主と愛国』では、荒正人も、じつに好意的に取り上げられている。
その荒正人は市民という言葉を積極的に使おうとした人らしいが、その思想内容も含めて、1980年ごろから見られるようになった草の根民主主義の先駆けとも言っていいんじゃないか、とさえ思える。
草の根民主主義というとすぐに馬鹿にされそうだけど、今ならNGOということになるんだろう。


評価しすぎなのかな、これは。荒正人の名前なんてWikipediaにもないし。
ただこれは市民運動的な側面とは関係がないが、荒正人が戦後の賠償問題にかんして、問題意識をより強くもった一人であることは特筆に価する。戦前から中国ばかりみていた竹内好ならば当たり前なのだろうが、彼がそれほど外に目を向けることができたのは、何故なのか?


ほんらい日本人自身がもっと深く関わるべきであった戦争責任問題が、国際情勢の変化でアメリカにより急速に消化させられてしまった。
保守派がその構造に甘えるのは仕方がないとして、左派の側でのアメリカにたいする抵抗といえば、ほぼ安保。
自分たちの身の安全を中心においた抵抗なのである。
周辺国への責任云々からアメリカを排除したいのでは、もちろんない。ただ等距離でありたいから排除したい、という理想主義、純潔主義にどうしても映ってしまう。
賠償を含めた周辺国への責任をきちんと果たし、それでも純潔になることなんて、そうとうな時間がたっても難しいはず。
それなのに、簡単にそういう理想を抱けてしまうような言論状況があったのは、これもまたアメリカの庇護にあったおかげ以外のなにものでもない。


アメリカの対共政策のおかげで深刻な戦争責任の追及もせず、豊かさを満喫してきながら、靖国問題などで「もう十分に反省してきただろう」などと言ってしまう…。
なんて愚かな。
そんなんじゃ、こっぴどいしっぺ返しをされても、全く持って当たり前。
でもって、そのしっぺ返しに反発するなんてのは、恥の上塗り、スプレーガンでベタベタ液ダレしてしまうくらいのものなんだって事が、この『民主と愛国』を読むとよく分かるのであった。