小説を2度読むということ

私のなかでは、2度目を読んでしまう作家というのは、一段上に位置している。


昔、その最上段にいたのが、白状してしまえば、P・オースターだった。
『シティ・オブ・グラス』は3回読んだ。何回読んでも素晴らしい本だったが、1回目よりも2回目のほうが良かった覚えがある。
『ムーン・パレス』は2回読んだ。


オースターへの躓きは『偶然の音楽』だった。これはもう1回目から。
この小説のラストは、私にとって最悪ともいえる描写だったのだが、もう途中から苦痛でしかたがない。
まるで自分自身の、劣化したコピーを繰り返しているような内容だったのだ。


その後、オースターって、こんな作家だったっけ、と『最後の物たちの国』の2回目にトライしたところ、少しも面白くなくて意外だった。『最後の物たちの国』もとても好きな作品だったのだ。
その『最後の〜』が出版されたころは、オースターがまだまだ注目を浴びていたころで、当時参加していたMLでも話題になること度々だったが、ある原書で読める参加者がオースターにちょろっと皮肉を書いていて、今思えば先見の明がある人がいたなあ、と。


ところで、推理小説なんかは、意外感を楽しむ種類の小説なので、スジを覚えている間は、2度目を読む人はいないだろう。
私が推理小説をあまり買わない理由はこれである。
1度読んでオシマイでは、コストパフォーマンスが低すぎだろう。
それに多くの推理小説はトリックとかに比重ばかりかけて、途中の記述などは平板でありきたりで、読書の最初から最後まで楽しめない。そういう意味でのコストパフォーマンスも低いったらありゃしない。


そういうなかで、私が2度目を読んだ推理小説があるのだが、それは『犬神家の一族』である。
横溝正史のあの独特の暗さ、そこで描かれた血とか宿命とかといったものの重さは、やはり、たかが推理小説と切って捨てるものでもない、他に得がたいものを持っていると思う。
ただ2度目を読んだのは、マンガである。