ルワンダについての映画

ルワンダの虐殺の事を扱った2作品をWOWOWで見た。
合羽橋の心得の話をしたばかりで、我ながらすごい落差であるが、その感想を中心に書きたい。


ちなみに、ルワンダの内戦については、以前何かのきっかけで興味を持ち、NHK衛星で放映されたドキュメンタリ−『元PKO部隊司令官が語る ルワンダ虐殺』なんかも見たことがある。ちなみに、そのドキュメンタリでは、2004年に行われた虐殺終結10周年記念式典の映像がとりわけ興味深かった。いくぶん寂しげな映像なのである。
まず、これだけの人類史に残るような大虐殺への追悼式典でありながら、西欧各国からはトップレベルの政治家の参列はほとんど無し。ベルギーや、フランスはルワンダへの関係が従来から深かったため、式典に幾ばくかの参列者がいるのだが、式典の主催者ともいえる現大統領のカガメ氏を、信頼しているようにはあまり見えない。ほんらい、虐殺を終わらせた英雄として扱われても良いはずなのだが。
ドキュメンタリの主人公である元国連司令官も、カガメ氏に対する評価は複雑だ。そう言われてカガメ氏の顔つきを見ると、彼が「悪い」事をしてきたかどうかなど分からないが、これは、と思った。ちょっとレベルが違う人だぞ、と。
非常に有能で、切れがあり、なおかつ、稀に見る強靭な精神力をもった人だな、というふうにそのとき感じたのではないか。とにかく彼の印象は強烈だった。


カガメ氏に対するそんな思いがあるものだから、現在もフランスとの間で揉めている、虐殺の発端となった大統領機撃墜への関与云々についても、その帰趨が非常に気になっている。


さて映画の話だが、まずは『ホテル・ルワンダ
日本未公開予定であったが、公開を求める運動があり、劇場公開までされた作品。
この作品の素晴らしさについては、ブログなどで山のように書かれており、あえてその内容に異を唱えるつもりはない。
どんなやり方であろうと、結果として大勢の命を救ったことの意義は何にも増して重く、そのことについては、もう賞賛以外の何物でもない。素晴らしい。ホテル支配人が行った判断の何かがちょっと違っていただけで、とんでもない悲劇になっていたのかもしれないのだ。


気になったのは、実話に基いていようと、やはり映画なんだなあ、という部分が大きいこと。
話の流れが映画的に洗練されているのだ。とても映画らしい作り。
起承転結というほどではないが、途中で充分ハラハラさせ、そのハラハラ感がピークに達した後一応の結末を見るが、最後にまたどんでん返し的な危機があり、それもあっと思わせる方法で逃れる、という流れ。
ハリウッドのアクション映画にとてもよく見られるようなパターンで、見る者がカタルシスを得られるようになっている。
ああ良かったな、と。
実際はホテルのすぐ近くでも大勢の人が惨殺されているのだが、そういう現実があることは分かりつつも、暗澹たる気分にならずに済ませることができるのだ。


同じ意味で、フツ側の政府軍や民兵もまた、純然たる悪役として描かれている気配が強いのだが、その辺はハリウッド的というほどでもない。フツ側にも理由があるのだ、という部分は、少しは伝わってくる。
ただ、最後のシーンでまさに英雄として登場する、ツチ反乱軍はちょっと格好良すぎたかな、という所はある。


こういう題材でも映画的な文脈が必要なのかどうか、というのはちょっと考えさせられるところではあった。


立て続けに見たのが、『ルワンダ 流血の4月
こちらの映画のほうが、むしろ強く印象に残った。
こちらの映画もフツ民兵は極悪に描かれている部分もあるのだが、同時に、フツの人たちの貧困ぶりも描かれているし、虐殺の生き残りを匿う農婦も登場したりする。
検問とはいえ昼間から酔っ払っていたり、ちょっくら殺しにいってくるか、と貧しげな農家の主人が棍棒を手にしたりするシーンは、フツの側のやるせなさ、みたいなものがよく出ている。この辺の描写は実相に近いのではないか、と思う。
また、主人公のフツ軍人も恵まれた立場ではあるが、例えばフランスの政府筋に連絡がとれるような人物が知り合いにいるようなホテルの支配人ほどは、特別な存在ではない。
この主人公の弟が、不安や憎悪を煽るラジオ局のDJをやっているのだが、その彼も極悪人として描かれるどころか、むしろ救おうとした人物として描いており(その箇所はこの映画のひとつのハイライトだろう)、フツとツチの対立がそう簡単に善悪に分けられるものではない事を示している。
また終結を知らせるかのようなツチ側反乱軍の登場も、それほど格好良くはない。


アメリカの対応にも応分の時間が割かれて描かれるのだが、結果として虐殺阻止に介入すべきだったとはよく言われることだが、そのアメリカの対応も非情なものとして、この映画は描いていない。
かといって言い訳めいたものを前面に出しているわけでもなく、アメリカがあの時点で動けなかったのは、納得せざるを得ない部分もあったな、けれども動けたかもしれないな、と微妙な位置にとどめている。


主人公軍人さんの奥さんが死亡していることもはっきりわかり、さしたるカタルシス感もなく終わるのだが、終わりにかけて、それでも生命を紡いでいく人々、下ばかり向いて生きていくわけにはいかないのだという人々を描き、救いの雰囲気を残しつつ、終わる。


いったいどうやったら防げるのか、介入すべきとしたらどのような形が可能だったか、など見た後に考えさせるという意味では『ホテル・ルワンダ』以上ではある。
ただ私がこの映画を見て、一番に思ったのは、というか驚いたのは、憎悪がすぐ隣にあるという事だ。
兄嫁がツチの人間でありながら、そのツチの人間をゴキブリ呼ばわりする職についている主人公の弟。この距離の近さ。どこか遠くの部落から殺しに来るのではなく、すぐ隣の人間が殺しにくるのだ。


もうひとつ。
時と場合によっては、自分が裏切り者と思われないために殺すということもあったかもしれない。それもまた悲劇だが、ただ、そのようなある意味免罪に等しいようなケースがどれほどあったのか。
存外少ないのではないか、でなければあれだけの短期間にこれだけ死なないだろう、と思うが、断定的な事は言えない。私には分からない所が多い。
ただ、もっとも見つめなければならない可能性であると私が考えるのは、運動家として民兵をやっていた者が殺したもののほかに、あの農夫のように隣人殺害という狂気に心底没入した一般人が相当数いたのではないか、という事だ。
そしてそれが、我々と同じ近代的な理性を持った人間であるという事だ。


いかにしたら、隣人殺害の狂気へと飛躍できるのか。あるいはそれは飛躍ではないのか、そんな狂気など簡単に移行できるものなのか。これらをいかに自分の身に置き換えようとしても、なかなか納得する道程が描けないでいる。